フェデリコ・フェリーニ『81/2』とタロットの関係(2) 愚者と手品師

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フェリーニと道化師と言えばまさに切っても切れない関係であり、そのままのタイトルの映画『道化師たち(I CLOWNS)』も製作している。彼は道化師を対照的な二つの類型、「アウグスト」と「白い道化師」とに分類していた。弱者と強者、支配される側と支配する側。フェリーニはその対照性を説明するのに「子供と親」、「生徒と教師」、「罪人と輝く剣を持つ天使」といった例を挙げている。太宰治の「喜劇名詞」と「悲劇名詞」ではないが、フェリーニはこの二つの両極的概念を敷衍していろいろなものを分類する。ユングとフロイト、ムッソリーニとヒトラー、アントニオーニとヴィスコンティ、など。

丁度タロットにおいてピエロとアルルカンのような対をなす二種類の芸人=上記の二類型を描いているとも言えるのが「愚者」と「手品師」であり、フェリーニの分身である主人公グイドはこれらゼロ番(無番号)と第1番の2枚に表現されていると見る。子供の頃のままの内面と、大人になり社会的地位と名声を得た一流映画監督としての外面を表すものとして。

まず「愚者」=少年グイド。厳しいキリスト教的教育を行うカトリック系学校の生徒として、サラギーナの件で不品行を咎められ罰を受ける彼の背中に貼られた紙に書かれていたのは「恥( Vergogna)」という語。注目すべきは頭にいわゆる「ばか帽子(dunce cap)」を被らされていることで、子供への罰として使われる同様の物に道化帽と直結する「ロバ帽子」もあるが、共通しているのはそれらが「ばか、愚か者」の印ということである。つまりはタロットの題名どおりの「愚者」。上掲の「子供」「生徒」「罪人」といった属性を取り揃えていることからも、母親や教師たち(=「白い道化師」たち)に苛まれ他の子供たちには笑い囃される姿には上記のアウグスト的な道化のイメージが見て取れる。

ばか帽子のグイド

フィナーレではまさに本物のアウグスト的道化師たちと一緒に楽器を演奏しながら少年時代のグイドが登場する。やはり「少年グイド=道化」であり、その後ろに犬が付いてくる姿は「愚者」札のデザインそのものである(下掲のカラースナップにおける犬のポーズ!)。

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道化師たちと犬(カラー)

この犬だが、その後は道化師たちのひとりに抱きかかえられる形で最終シーンまで登場する。それ以前のストーリーには全く登場していないキャラクターである以上、監督フェリーニが「道化師と犬」の組合わせにこだわってわざわざこのような演出をしたことは間違いなかろう。つまりは、「愚者」札の影である。

犬

フェリーニのメンター的存在であったベルンハルト博士はユング心理学でいう「永遠の少年(プエル・アエテルヌス)」元型そのものをフェリーニの中に見出し、自覚を促していたという。グイドは愛人カルラとのベッドの中で大人の身体のまま子供時代の制服を着ている夢を見るが、ここにもそのことが反映されているのであろう。大人になりきれぬままの内面、幼き道化としての魂。そして、ハンニ・ビンダーの記録によるとユング自身が挙げたタロットの「愚者」札のキーワードのひとつが「夢みる者」。フェリーニそのものといえよう。彼が仕事机のすぐ側に飾っていた3枚のカードの中央が愚者札であったのもうべなるかなである。

この札については、また最終回においても改めて扱うことになる。

墓場のグイド

 

さてつづいて、一方の「手品師」。長じてすでに有名映画監督となったグイドだが、仕事仲間に”buffone”、”pagliaccio”と呼びかけられる場面がある。どちらも「道化師」を意味する語であり、実際調子のいい八方美人という道化的な性格付けがなされている。ただし幼稚さを残しているとは言え、セレブリティとなった現在の彼は上記の分類方で言えば「アウグスト」というよりもはや「白い道化師」の側が相応しかろう。フェリーニはグイド役をマルチェロ・マストロヤンニに決定する前にはローレンス・オリヴィエやピーター・オトゥールなどの起用も検討していたという。「白い道化師」の優雅で気品があり聡明なイメージ(フェリーニによる表現)を求めてのことと思われる。マストロヤンニには彼の短い指を長く綺麗に見せるよう細工を企てたり、身のこなしを洗練させるべくダンスを習わせたりもしている。

グイド

ソリテアをするグイド

グイドは「ピノキオ」とも呼ばれ、それらしい付け鼻を付ける場面もあったりする。言うまでもなく、ピノキオと言えば「嘘つき」。その場しのぎの嘘を撒き散らし、特に妻ルイーザにはその不実を非難される。
ピノキオ鼻のグイド

さらに直接関係があるかどうかはともかく、グイドがサングラスをずり下げる有名なシーンは狡猾なアルルカンをも連想させる(下の比較画像はニジンスキーの演じたアルルカン)。多くの場面で被っている鍔広の帽子も相俟って、口八丁手八丁でカモの客を丸め込むのを仕事とする大道芸人を描いたマルセイユ版「手品師」札のイメージに通じると言えよう。

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モーリス1

モーリス2

モーリスとグイドが共通して黒い服と鍔広帽を身につけているのはモーリスが主人公グイドの「分身(アルター・エゴ)」であることの暗示であろう。また黒い鍔広帽(ステットソン帽)はとりもなおさず監督であるフェリーニ自身のトレードマークであった。グイドがフェリーニ自身であることは本人も公言している(最初は認めたがらなかったらしいが)。つまりは「モーリス≒グイド≒フェリーニ」。「魔術師(il Mago)」はフェリーニの最もよく知られた通り名でもある。スランプのフェリーニがこの映画の製作を放棄しようとして思いとどまった時のことを回想した際の言葉。「皆が私を『魔術師』と呼んだ。私の『魔術』はどこに行った?」

フェリーニとグイド(マストロヤンニ)
グイドとモーリス

ペルソナ的な「白い道化師」グイド・アンセルミ監督。内には子供のままの「アウグスト」がいる。両者はフィナーレで相見えることになる。

フェリーニ自身の言葉を引用しておこう。

「自分が道化師とするならアウグストだろうが、白い道化師でもある。もしかすると、サーカス団長かもしれない。」

「私の映画は二人の人物が出会い、一緒に去るところで終わる。なぜこんな状況が感動的なのだろうか?それは、二人の人物が私たちのめいめいの奥深いところにある神話を具象化しているからだ  ー 対立するものの一致、存在の統一。」

「サーカス団長(ムシュー・ロワイヤル)」のたとえについては、これもまた最終回にて。(了)

 

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