フェデリコ・フェリーニ『81/2』とタロットの関係(5) 恋人と戦車

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主人公グイドが置かれている危機的状況に関連のある2枚である。

まずは「恋人」札。ライダー版や例のモディアーノ社製エジプト風デッキなどには見られない、マルセイユ版独特のデザインがカギとなる。

この絵柄の解釈としてまず一般的なのは「二人の女性に挟まれる男性」というもので、「選択」や「決断」というのがそれに基づいたキーワードとしてよく知られている。例えば、実際フェリーニが参照した可能性もあるベルヌーリのタロット論でもこの札の解釈に関して「決断(Entscheidung)」の語が繰り返されている。『81/2』に当てはめて考えると、「妻ルイーザと愛人カルラの間で板挟みになる主人公グイド」というのが素直な解釈であろう。(友人メッツァボッタと愛人グロリア、妻ティーナ三名の関係とも重なる。)

そしてもう一つ、この札の別の伝統的な見方が「中央の男性と向かって右の女性のカップルに相対する第三の人物」(結婚式での新郎新婦と司祭など)というもの。その場合カップルは夫婦であるグイドとルイーザで、もうひとりの人物はルイーザの親友でグイドとも旧知の間柄であるロッセッラと見ることができる。下の場面は構図的にタロットのそれを思わせる。

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ロッセッラはグイドの性的関心からは外れているようで、彼のハーレム幻想でも「ピノキオ(=グイド)のコオロギ(=お目付役)」として登場する。今でいうスピリチュアリストであり、前々からグイドに「精霊たち(spiriti)」からのメッセージを伝えようとしている。「恋人」札に即すれば、上空に描かれているクピド=「精霊」と解釈できよう。

ロッセッラがグイドに伝える「精霊たち」からのメッセージ。

「君は自由だ。だが選択が出来るようになる必要がある。そしてもはや君に残された時間はあまり無い。急ぎなさい。」

上記のように「恋人」札らしく、「選択」のキーワードが現れている。また、「自由」に関していうとフェリーニには「『完全な自由』は芸術家にとって危険だ。ただ何もせずインスピレーションを待つばかりになる可能性がある」といった旨の発言がある。蓋し、この「メッセージ」はこの頃のフェリーニの心境を反映したものなのであろう。あと一つの重要なワード「時間」に関しては後日、「運命の輪」の項で扱うことにする。

さて、この項の内容的には全くの余談となるが。ロッセッラ・ファルク演じるこの役が髪型やメイクも相俟ってどことなくかのシャーリー・マクレーン(下のカラー写真)に似ている気がする。この映画の撮影された当時はまだマクレーンがニューエイジ運動の旗手としてスピリチュアルな方面で有名になるずっと前なので、奇妙な偶然ではある。(ちなみにこれまた偶然にも、のちにマクレーンはフェリーニの代表作の一つ『カビリアの夜』を基にしたミュージカル映画『スイート・チャリティ』に主演することになる。)

ロッセッラ

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閑話休題。もうひとつこの札のイメージ(上空で光輝を背にするクピド)と照応する部分として、冒頭の夢におけるグイドの飛翔シーンも挙げておこう。

 

ではつづいて「戦車」札。この映画では自動車や列車などの「乗り物」が随所に登場する。何よりもまずはあまりにも名高い冒頭の悪夢のシーン。大渋滞の車中で文字どおりに息が詰まる夢を見るグイド。


この冒頭部において既に顕著だが、全体的にこの映画での「乗り物」というモチーフはどうもネガティブな意味合いの籠ったもののような印象を受ける。「自分を望まぬ所に連れて行くもの」(例・記者会見の場へ連行されるシーン)、あるいは「自分の望まぬものを連れて来るもの」(例・愛人カルラが乗って来る汽車)、など。「目標の地へと積極的に向かって行く」というポジティブな感じがしない。グイドの希望の象徴のようなクラウディアとのドライブシーンでさえも「逃避」的な印象のもので、結局求めていた救済は得られず「自分は終わりだ」と覚悟する羽目になる。

下の画像は例の「悪夢」の実現の如く、グイドが映画製作記者会見に車で向かう場面のもの。

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元々は列車でのシーンが全編のラストに使われる予定で、実際に撮影も行なわれていた。惜しくもフィルムは失われスチール写真(下掲)が残るのみだが、グイドの人生の登場人物たちが客車に勢揃いした静謐で「死」を思わせるようなものだったという。しかし結局は、現在見られる正反対で賑やかな「生」のラストに変更されている。再び最終回で論じることになるが、それがフェリーニの「選択」であった。さてその祝祭的なエンディングも、映画の製作が中止となり「死神」的な批評家ドーミエと共に現場を去るべく乗り込んだ車の中で突然訪れる啓示的なヴィジョンから始まる。いわばどん底からの大転回だが、そのどん底はやはり車中で迎えているのである。

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最後に、タロット「戦車」札とのデザイン的な一致が見られる部分を指摘しておく。グイド・ルイーザ・ロッセッラの3人がいるカフェ(上掲「恋人」部の画像参照)に偶然愛人のカルラがまさに「馬車」で乗り付けてあわや修羅場に、というシーン。これもまた、「望まぬものを連れてくる」一例である。(了)

馬車

 

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