フェデリコ・フェリーニ『81/2』とタロットの関係(9) 節制と悪魔

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天使と悪魔の組み合わせ。前者は危機に喘ぐ主人公グイドにとっての救済の象徴となっている女優クラウディア。後者はグイドの「ハーレム幻想」に見られる、彼自身の最もエゴイスティックな姿である。

まず「節制=女優クラウディア」は彼女の 初登場シーンで示される。鉱水飲み場で順番を待つグイドにふと訪れる幻想。下掲の動画がそのシーン。

この役を演じたクラウディア・カルディナーレ自身もこちらの動画で触れているが、彼女の動きは空を飛ぶかのようであり、翼を広げた天使さながらである

クラウディア1

そして主人公グイドに「癒しの水を差し出す娘たちのひとり」(グイドが後のドライブシーンでクラウディアに語った言葉)としてコップを渡す。

クラウディア2

かように、「節制」札の翼や両手の瓶とイメージ的に照合する。

さらに、「女教皇」と「女帝」の項で引用したフェリーニ自身の言葉を再掲しておこう。

グイドは女たちと甚だ決断力のない情緒的関係にある。彼の心は女をはっきり二つに分けて考えるという性向がある。つまり一つは、処女とか、母親とか、奥さんとか、つまり最大限に理想化された女のタイプである。もう一つは売春婦とかいわゆるメス、つまりイヴの最も基本的な姿である。女のこの二つのタイプを一つにすることができないということ — クラウディアに対してそれを彼は非常にギコチなく試みるのだが — それが彼の不幸の理由の一つである。つまり彼には女たちと大人の関係を結ぶことができないのだ。

「節制」の両手に持った二つの瓶の間に水が流れるデザイン。両極的な女性の二つのタイプを統合することの象徴をこの札に見出した可能性もあろう。

そもそも「節制」(temperanza)とは節度を保ち、欲望を自制することにある。グイドは自分の映画ないしその主人公について、「僕の映画では全てが起こる。全てを詰め込む。」「彼は全てを手に入れ全てを奪い取ることを欲する。何も諦めることが出来ない。」と述べる。それは即ち彼自身のことである。彼は己の煩悩の火を彼が「救済者」と呼ぶ純粋無垢な存在クラウディアに消してもらうことを望んだのかもしれない。そんな希望も現実のクラウディアとの二人きりのドライブで幻想と気づかされ、避けられぬ破綻を覚悟することになるのだが。

そんな彼の欲深さ、エゴイスティックな姿が如実に表されているのが「ハーレム幻想」。最初は妻ルイーザと愛人カルラが仲睦まじく踊る妄想から始まり、彼が実際に関係を持ったりあるいは関心を持った女性たちをかつて幼少時代に親しんだ祖母の家に集めた場面へと続いて行く。そこで「運命の輪」の項で記した反乱が起こる訳だが、ここで「悪魔」札の登場となる。

件の反乱シーンの動画が以下。ワーグナーの『ヴァルキューレの騎行』をBGMに展開する、この映画で最も有名なシーンのひとつである。

「悪魔」=鞭を手に女性たちを支配するグイド。さらに『七年目の浮気』のマリリン・モンローのような何故か女装風の姿も、両性具有的なマルセイユ版「悪魔」を彷彿させる。

ハレムのグイド1

ハレムのグイド2

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グイドは猛獣使いの如くムチの恐怖(と快楽)で女性たちの反乱を鎮圧する。元々のシナリオには「トラに変身した女性たちをグイドが輪くぐりさせる」云々とあり、サーカスを意識した場面であったことが伺える。

追加。乳房を持つ悪魔の女性的な面としては、グイドの少年時代に教師たちが「悪魔」と呼んでいたサラギーナ(このハーレムシーンにも登場)もイメージ的につながる。色気づき始めた少年たちをその肉体で魅了する存在。「力」札の項参照。(了)

 

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