・澁澤龍彦『黒魔術の手帖』 - 昭和36年

 今回のテーマは昭和30年代。我が国におけるタロット受容が本格的に始まったのはこの時期だと言ってよかろう。それは日本タロット史に残る二つの大きな業績が遺されたことによる。一つは山田美登利女史による国産初のタロットデッキの出版であるが、残念ながら私家版という形だったので一般の人々に認知されるものではなかった。それに対し、もう一方の「業績」はその後も長く読み継がれ、日本人のタロットに対する一般的イメージの形成に少なからぬ影響を与えたものと思われる。それが澁澤龍彦の『黒魔術の手帖』所収のエッセイ、「古代カルタの謎」である。

 『黒魔術の手帖』は昭和35(1960)年8月〜昭和36(1961)年10月、推理小説専門誌『宝石』(宝石社)に連載されたものをまとめたもので、昭和36年10月に桃源社から刊行された(ちなみに連載当時『宝石』誌の編集発行を切り盛りしていたのが前回取り上げた江戸川乱歩である)。「古代カルタの謎」はその連載第5回目にあたり、第1回「ヤコブスの豚」で軽く言及したタロットを改めてメインとして取り上げたような形になっている。

 では「古代カルタの謎」の内容を考察してみよう。まずは冒頭部分。

 いまわたしの目の前に、七十八枚の奇妙なカードが並んでいる。けばけばしい色どりの、どことなく稚拙な感じさえする絵入りのカードである。見たところ、普通のトランプに似ているが、実は大違い、これは、何千年もの昔から、ジプシー女や魔法道士に珍重され、世界各地で複製されて、二十世紀の今日にまで伝わっているふしぎなカードなのである。熟練した魔術の大家は、このカードをいろいろな形に並べて、人間の運命、過去や未来を占ったと言われている。

 ここで述べられているデッキは「グリモー版」マルセイユと考えるのがまあ妥当であろう。澁澤が少なくとも1965年頃までにマルセイユ版を入手していたらしいことについては入沢康夫氏(詩人。澁澤にとっては東大仏文の後輩にあたる)の証言がある[☆脚註1]。1974年発表のエッセイ『タロッコの謎』(平凡社『別冊太陽』第9号)ではグリモー・マルセイユが図版として使われており、さらに以前見た澁澤邸の写真では同デッキのXII番「吊るし人」からXVIIII番「太陽」までの8枚が額に入れて応接間に飾ってあった(いつ頃から飾られているものかはわからないが)。

 ただし、『黒魔術の手帖』の図版として使われているのは一見上記マルセイユデッキのように見えるがそうではない。同じGrimaud社によって1891年から1930年頃まで発行され、当のグリモー・マルセイユの原型となった「ブザンソン版」風デッキである。『手帖』のモノクロ図版でもマルセイユと配色が違うことが見てとれるが、デザイン的にもいくつか差異がある。中でも決定的な違いは「戦車」の札である。図版の前面シールドに見える文字は『手帖』図版同様”VT”だが、グリモー・マルセイユでは”SM”となっているのである。


左がブザンソン風デッキ / 右はグリモー・マルセイユ

 詳しくは後で述べるが、そもそも『手帖』図版はまず澁澤所有のデッキを写したものでは有り得ないのである。

 この神秘的なカードは、フランスではタロ、ドイツではタロック、イタリアではタロッキと呼ばれる。オカルティズム作家として最も有力な、ディクスン・カーの『剣の八』という作品に、このタロック・カードが登場し、小説ぜんたいの雰囲気に異様な神秘性を与えていることを、怪奇小説通の読者は御存じであろう。『剣の八』は傑作とは言いがたいが、タロックを小道具として筋立てのなかに生かした点、特記すべきものがある。そのほか、わたしの見聞した範囲では、デニス・ホイートリの『黒魔団』にも、タロックを使う気味のわるい婆さんが出てきたと記憶する。

 『剣の八』(1934)については前回詳しく記した。邦訳出版は昭和33年(1958)である。
 デニス・ホイートリの『黒魔団』(原題 “The Devil Rides Out” 1935)は東京創元社の「世界恐怖小説全集」第5巻として、シリーズ監修者である平井呈一の訳で昭和34年(1959)5月に出版された[☆脚註2]。同全集は戦後日本における怪奇幻想文学史の原点ともいわれている画期的なもので、澁澤自身も訳者として関わっている。澁澤が述べているとおり同書にはタロット(平井訳では「タロト」)への言及があり、全体のストーリーとは一切関係なく唐突に大アルカナ全22枚の簡単な描写がなされる。この部分の種本は十中八九グリヨ=ド=ジヴリの『妖術師・秘術師・錬金術師の博物館』(1929)であろうと推察されるが、本当に全く脈絡が無いので何を狙ってこんなことをしたのかと首をひねりたくなるくらいである。しかしこの書もそれがために、当時の日本の読者にタロットなるものの存在を意識させる役割を多少なりとも果たしたものと思われる。

 話を澁澤に戻して、彼がこのエッセイ中で一貫して使用している「タロック」という呼称について考えてみたい。上記のドイツ語での呼び名を採用したようにも見えるが、澁澤の専攻はフランス文学であってドイツ語はいわば専門外である。単純に響きが気に入ったからとも考えられなくはないが、もしかするとこれは英語として使用しているのかもしれない。前回述べたようにカーの『剣の八』では英語としてタロク(taroc)という語が使われている。また澁澤はこの文章中の随所で「タロック・カード」という表現を使っているが、「独語—英語」の折衷とするよりも、本人は”taroc card”という英語として意識していたと考える方が自然なのではなかろうか。
 ちなみに澁澤は1972年の『悪魔のいる文学史』では「タロット」、1974年のエッセイ『タロッコの謎』では表題通り「タロッコ」という呼び名を採用しており、この点においては統一性がない(その理由もいろいろ邪推は出来るのだが今それを記すのは控えておこう)。

  前にやはりわたしが見せてもらったのは、いちばんポピュラーなイタリアのタロッキで、 それは洋画家の故内田巌氏の家に伝わる貴重な品だった。外国航路の船員からもらったとかいう話であった。内田氏のお嬢さんの路子さんは、「あげないわよ。借してあげるだけよ」と駄目を押して、笑いながらわたしの手に渡してくれたのだが……今では、返してしまったことをわたしは後悔している。

 澁澤がいつ頃タロットに関心を抱き始めたのかは不明である。A.ブルトンに傾倒していたという学生時代であった可能性もあるが、上記の内田家のタロッキを見せてもらったのがきっかけだったということも有り得よう。もともと花札などの遊びは好きだったそうなので、この西洋の不思議なカルタに大いに関心を惹かれたことは想像に難くない。

 さて、ここまでに引用したのはちょうど最初の1ページ分である。これ以降に関しては詳細に検討することはよしてまとめて論じさせて頂くことにする。
 澁澤の著述の大多数が様々な書の引用から成っていることは有名であるが、このエッセイも2ページ目以降はほぼ全面的にK. セリグマンの『魔法 – その歴史と正体』(原題 “The History of Magic” 1948)の換骨奪胎であり、例の図版も同書のものをそっくりそのまま使用しているのである。ジェブランやヴァン・レンセラー夫人の著書からの引用文なども例外ではない。そして彼の場合大体においてそうであるように出典を明らかにはしていないのである。


セリグマン『魔法』所載のタロット図版

 このセリグマンの書が平凡社から翻訳刊行されたのは奇しくも『手帖』と全く同時期の昭和36年7月のことであるが、その際原書にあったタロットに関する章がカットされたことはよく知られている。訳者の平田寛氏は初版あとがきの追記にこう記している。

「この翻訳では、原書にある「タロト」<Tarot>、すなわち古風な一種のトランプに関する解説は、あまりにもわれわれには無関係なので省いた。ページ数にしてもわずかである。 ・・・」

 この件に関しては占星術家のウラヌス星風が『奇想天外』誌(1974年7月号)で次のようなエピソードを紹介している。

 ・・・この訳者は大学で英語を教えている先生で、後日、その授業を受けていた私の後輩が、機会を見て平田先生に質問したという。
 「どうしてタロット・カードの章を訳さなかったんですか?ボクたち、すごく興味を持ってたんですよ」
 「いやあ、実をいうとね、キミ、あの章はよく訳がわからんので面倒くさくてとばしたんだヨ」

 さらに、初版から実に30年を隔てて出版されたタロットに関する章も含む完訳版〈人文書院 1991)の後書きでは「ページ数の都合」だったとされている。

 もともと平田氏の専攻は科学技術史だというから妙ちくりんなカルタなんぞに関心が持てなかったとしても分からないではない。しかし、なんともすっきりしない言い訳だなあ、と私などは思うのである。何といっても一貫性が無い。訳者解説によると平田氏がセリグマンの原書を手に入れたのが1960年の初め頃、翻訳にとりかかったのは同年初夏以降のことらしい。これはまさに澁澤の『宝石』誌での連載と同時期である。平凡社で翻訳出版する予定がある、くらいの情報は同じ出版業界内ではすぐに流れたものと思われる。この件に関して何らかの秘密交渉めいたものが陰で行なわれたのでは、と考えるのは穿鑿のし過ぎであろうか。


左から『剣の八』『黒魔団』『魔法』

 澁澤はおよそ13年後、前出のエッセイ『タロッコの謎』の中でさりげなくセリグマンの名と『魔術の鏡』(“The Mirror of Magic”)という作品名を挙げている。これは『魔法』とタイトルが違うだけで実際は同一の書なのである。「古代カルタの謎」との関連については触れておらず、そこに「種明かし」の意図があったのかどうかは定かでない。

 本人も認めているとおり「この『黒魔術の手帖』は、ようやく私がオカルティズムの領域に近づき出した、まだほんの初心者のころに執筆されたもの」(文庫版あとがき)なのであるから、1961年の時点ではタロットに関してもまだ「かじり立て」だったのであろう。澁澤はその後もブルトンの『秘法十七番』他やマイリンクの『ゴーレム』、レヴィやド=ガイタ、ヴィルト[☆脚註3]といった人物たちへの言及などを通して、正確な名称も定かならぬ「神秘的な西洋のカルタ」に対する読者の関心を直接的にも間接的にも刺激し続けていったものと想像される。

☆脚註1
「・・・澁澤龍彦氏からもらったそうした書簡の中で、二つのものがまだ記憶にはっきり残っている。その一つは、私が送った詩集『季節についての試論』への返礼文の一節で、あの詩集の『お伽芝居——Tarotのカードによる詩論の試み』に関して、所蔵のTarot de Marseillesのことが、愛着をこめて語られている。一九六五年頃のことで、当時はいまとちがって、日本ではまだ、タロットのカードのことは、ほとんど一般には知られていなかった。・・・」
(『澁澤龍彦事典』平凡社コロナ・ブックス 1996年)

☆脚註2
昭和47年には別訳が『恐怖の黒魔団』というタイトルで朝日ソノラマの「少年少女世界恐怖小説」シリーズ(監修はまたも平井呈一)に収録されている(抄訳)。訳者は間羊太郎。即ち今回の文章中でも触れた「ウラヌス星風」と同一人物である。

☆脚註3
澁澤の書斎の本棚の写真中にヴィルトの『中世版画師のタロット』(1966年版)の存在が確認できた。

※トップの画像
『黒魔術の手帖』(初版本) 函と本体。