・種村季弘『錬金術 – タロットと愚者の旅』 – 昭和47年

 さて、いよいよ話は日本タロット受容史上最も重要な時期に移る。昭和40年代の終り頃、いわゆるオカルトブーム到来と同時にタロットも俄に大流行し、マスコミ等で頻繁に取り上げられたことによって一部のマニア・趣味人の間だけに止まらず広く一般の人々にもその存在を認知されるようになった。それだけにこの年代は余りに取り上げるべき対象が多すぎ、とても全てをカバーし尽くせるものではない。よってこの年代に関してはテーマを絞り込んだ上で数回に分けて扱うことにした。まず今回は、我が国への西洋オカルティズムの紹介者として前回取り上げた澁澤龍彦と並び称される種村季弘(1933-2004)の『錬金術 - タロットと愚者の旅』(青土社)について記したい。タロットを中心的な主題とした単行本としては我が国で最初のものと思われるからである。

 同書の発行は昭和47年(1972)4月10日。美術史家ルドルフ・ベルヌーリ(1880 – 1948)[☆脚註1]の錬金術とタロットに関する論文の翻訳をメインとし、それに種村のタロットをめぐるエッセイ「愚者の旅」を付した形となっている。第四章にあたるベルヌーリの「タロット体系の象徴」はその前年、竹内書店発行の季刊誌『パイデイア』の「シンボル・錬金術」特集号(1971年春号)に掲載されていた。おそらくそこから単行本発行の企画が持ち上がったのであろう[☆脚註2]。

 では内容を簡単にみていこう。まずはベルヌーリの論文について。
 あとがきと奥付によると、この訳は田部淑子・橘美紀子両氏による下訳に種村が手を入れたものとのことである(上記『パイデイア』誌掲載記事は田部氏によるものであった)。オリジナルは『エラノス年報』(ユングが中心的役割を果たしていたエラノス会議の講演記録集)1934年次号と1935年次号に掲載されていたもので、種村によると「錬金術的思考に関する基本的文献としてこの二論文の声名は高く、ユングやG・R・ホッケなどによってしばしば引用されている」(『錬金術』あとがきより)。種村がこのベルヌーリの論文に興味を持ったのも他ならぬホッケ(1908 – 1985)が引用していたがためなのかもしれない[☆脚註3]。ベルヌーリの論述内容についてはここでは詳しく触れないが、タロットの体系を主に数秘学的・幾何学的観点から検証したもので興味深いものである。



『エラノス年報』1934年次号と『パイデイア』誌1971年春号

 続いては種村の「愚者の旅」。
 冒頭を飾る言葉は「三十輻共一轂。當其無。有車之用」。『老子』からの引用である。そこから喚起される「車輪」のイメージと連繋して、話は薔薇十字団文書に登場する不思議な「輪」から始まる。この後そのまま「輪」というモチーフを変奏するかのように次々と歴史上現れた種々様々な「輪」を辿ってゆく。音楽のソナタ形式に喩えれば「輪」こそこのエッセイの第一主題のようなものとなっている。「タロット」の名はなかなか現れず、実に20ページ目あたりに差し掛かったところでR・O・T・Aの四文字を輪状にならべた図(レヴィの『高等魔術の教理と祭儀』によって有名になった)が登場。そのアナグラム -TARO(T)- が行われ、ついに「タロット!」と感嘆符つきで高らかにその名が発される。その後はジェブランの「タロット=トートの書」説を基に「タロット=原初の綴じられざる書物」との論が繰り広げられる形になる。前の音楽の喩えに則して言えば「書物/本」は第二主題といえようか。そしてソナタ形式で主題提示部のあとは二つの主題を絡めてゆく展開部が続くように、種村はオスヴァルド・ヴィルトを引用しつつ「書物」であるタロットに「輪」としての構造が秘められていることを明かしてゆく。それが一段落すると改めてタロットは元来書物であるという主張が繰り返され、最後には「輪」と「本」という二つのモチーフは混然一体と化す。曰く、「同時に一冊の本であり、回転する輪であり、世界であるような不可思議な世界輪(ロータエ・ムンディ)。神が『止まれ(ペレアット)』と言い給うであろうときに、その全容をあらわすはずの巨大な白紙(タブラ・ラサ)。車輪よ、回れ!」・・・。名文家種村の面目躍如たる、誠に印象的かつ見事なコーダである


アナグラム図

 種村もここで盟友澁澤と同様、複数の出典からいろいろ素材を拾って自由自在にコラージュしてゆくスタイルを採っている。このエッセイで最も活用されている文献はドイツの薔薇十字研究家ヴィリー・シュレーター(1897 – 1971)の”Geheimkunste der Rosenkreuzer” (1954)であり、冒頭部の薔薇十字文献の引用や「ラファエルの大いなる物言う輪」「ピュタゴラスの輪」、その他かなり多くの部分がこの書に拠っていることが確認できた[☆脚註4]。
 その他のソースとしてはイーデン・グレイ(1901 – 1999)の”The Complete Guide to the Tarot”(1970)やヴィルトの『中世版画師のタロット』1966年版[☆脚註5]などが挙げられる。グレイのこの著書はこの時代我が国でタロットについて論じた多くの人が参考にしていたものであり、「愚者の旅」というタイトルもこの書の終章の題(”THE FOOL’S JOURNEY”)から採られたようである。ヴィルト本に関しては付属のカード22枚がこの『錬金術』の口絵としてフルカラーで使用されてもいる。種村は文中ウェイトやレヴィを引用しているが、それらも上記からの孫引きと思しい。

 「愚者の旅」は同じ年に薔薇十字社から出された『薔薇十字の魔法』にも収録されているが、加えて種村はこの年『芸術生活』誌7月号(芸術生活社)にエッセイ「タロットの秘密」を発表したり、スタジオTUM発行のヴィルト版コピーデッキ(詳しくは後日)監修、自身が深く関わっていた画廊人魚館でのタロット展開催[☆脚註6]など、タロットにかなり熱を入れていた。昭和45年(1970)の澁澤『黒魔術の手帖』新版(『澁澤龍彦集成 I 』の一部として)やその翌年の酒井潔『悪魔学大全』(『降霊魔術』の再編集版。解説は澁澤)などと共に、「その方面」の好きな読者達のタロットに対する興味を大いにかきたてたことは想像に難くない。日本でのタロットの普及において澁澤・種村両名の果たした役割は非常に大きなものであったろうと思う。

 最後に。種村はどの論述でも終始一貫して「タロット」という表記を用いている。TAROTのドイツ語読み、という意識で使用していたらしいのだが、このことで種村は占星家のウラヌス星風から非難されることになる。そして、それを機にあのいわゆる「タロウかタロットか」論争が勃発するのである。

☆脚註1
 余談だが以前このブログで扱ったDeirdre Bairの”Jung – A Biography”(2003)によるとベルヌーリはしばしば自宅で交霊会を催していたそうで、このことからもオカルティズムに強い関心を持っていたことがわかる。

☆脚註2
 『パイデイア』のこの号の編集後記には「この特集では、種村季弘氏に、資料その他の点で大変お世話になりました」とある。種村自身も「化学の結婚」(『薔薇十字の魔法』所収)を寄稿しており、すでに「輪」とタロットの関係(ROTA →TAROT)について軽く触れている。

☆脚註3
 グスタフ・ルネ・ホッケは種村が特に愛した著述家で、そもそも種村が世間にその名を知られるようになったのはホッケの『迷宮としての世界』(美術出版社、昭和41年)の訳者としてである。その後も『文学におけるマニエリスム』(現代思潮社、昭和46年)その他の訳を手掛けている。ちなみに『迷宮としての世界』の共訳者矢川澄子(1930 – 2002)は当時の澁澤龍彦夫人であった。

☆脚註4
 私が参照したのは英訳版(”A Rosicrucian Notebook” Samuel Weiser, 1992)である。

☆脚註5
 『錬金術』あとがきには資料協力者として岡田夏彦氏(『運命の書』の著者)と安原顕(1939-2003 伝説的名編集者。「ヤスケン」の愛称で知られる)の名が挙げられているが、渡辺一考氏によると『中世版画師のタロット』(1966年版)は安原が持ち込んだものだったのだそうである。安原と種村の交友は昭和44年(1969)、当時竹内書店にいた安原が種村の『ナンセンス詩人の肖像』単行本出版を企画担当したことから始まる。安原は上記『パイデイア』も担当していたのだが同年竹内書店を退社して中央公論社に移り、文芸誌『海』の編集部に入った。種村が翌年から『海』に寄稿を始めたのも安原との縁故によるものか。

☆脚註6
 画廊人魚館は昭和47年(1972)、東京都杉並区荻窪の名曲喫茶「ミニヨン」(詩人の西脇順三郎をはじめ多くの文人が集った)内に瀧口修造(1903-1979 日本におけるシュルレアリスム運動の中心人物)と種村によって設けられたもの。岡田夏彦氏も運営に携わっていた。タロット展のほか幻想の地図展・不思議の国のアリス展などユニークな企画が催されたそうである。
 タロット展では例のスタジオTUM版デッキのほか、カードの描かれた絵画やデザイナーの草刈順氏によるだまし絵も展示されていた(草刈氏はスタジオTUM版デッキや岡田氏の『運命の書』の装丁、さらには昭和49年神戸でのタロット展のポスターも担当している)。
 以上は渡辺一考氏から頂いた情報による。記して感謝申し上げる次第である。

※トップの画像
『錬金術』初版本と『パイデイア』誌所載の「タロット体系の象徴」。