フェデリコ・フェリーニ『81/2』とタロットの関係(12) 審判と世界、そして愚者ふたたび

grimaud20     grimaud21

ロケット発射台のセット=「塔」での破滅的な記者会見が終わり、物語はいよいよフィナーレを迎える。新作製作の中止が決まった後「死神」的な批評家ドーミエと共に車中にいるグイドに、「魔術師」モーリスが近づいて来て声を掛ける。「準備は出来たよ」。モーリスは号令を下し、「塔」のある撮影現場の全照明を「星」の如く点灯させる。と、グイドの脳内にはそれまで出逢った様々な人々の姿が「月」の周りの滴の如く集結するように映し出される。

妻ルイーザは彼らの代表なのであろう。「星」のような照明を背にした「月の女」。彼女とグイドは「太陽」札の二人さながらに和解を果たす。このあたり、タロットの札順どおりのイメージ展開とも捉えられる。

人生の旅でグイドは様々な人々と出逢いつつも、彼らとの隔絶感や本当に彼らを愛していると実感できない自分にずっと悩まされていた。記者会見でのピストル自殺幻想は彼にとってまさにひとつの精神的な死であったが、「塔」札の炎に象徴される天啓の如きものによって彼ら全てを受け入れ愛することの出来る自分を発見する。この「復活」こそ、次の「審判」札に描かれるとおりである。

という訳で「審判」。メガホンを執り、勢揃いした人々に演出の指示を出す映画監督グイド(この札のラッパを「メガホン」とする解釈は18世紀のド=メレー伯爵に既に見られる)。そうしてタロットのデザインそのままに母や亡父、さらには子供時代の自分さえも蘇らせる。

この札の天使のように想像力の翼を広げ創作意欲を漲らせるグイドはオープニングの夢における飛翔シーンを思い起こさせるが、フェリーニはドキュメンタリー映画『フェリーニ 大いなる嘘つき』中のインタビューで「撮影現場では普段の自分とは全く別の人格が現れる」という旨のことを述べている。

自分の仕事をする時 映画作家になる時 謎の男が現れる 私の知らない男だ その男が現場を取り仕切る 私の代わりに監督する 私は声を出し 職人技を提供し 人を惑わし 考えを盗み 威厳を保つだけ 私ではない誰かが… その男と私は共存しているが 噂に聞くだけの未知の男だ

同作中でフェリーニは創作者として「希望=待つこと」の重要性を強調しているが、「審判」札は件の「知らない男」の降臨を地上で待つフェリーニ自身の姿のようにも見えてくる。

それはさておき、この場面でのグイドはまさしく例の、フェリーニ独自の「道化師分類」における第3の類型「サーカス団長」(ムシュー・ロワイヤル)的な姿である。フェリーニによればこの「サーカス団長」とは「自分のなかの二つの傾向を客観的な、公平なレヴェルで一致させようとしている」存在だという。ここでの二つの傾向とは勿論「アウグスト」と「白い道化師」。ひいては、「少年グイド」と「有名映画監督グイド・アンセルミ」。

xx-メガホンをとるグイド

xx-%e3%83%95%e3%82%a3%e3%83%8a%e3%83%bc%e3%83%ac%e3%81%ae%e7%88%b6%e6%af%8d%e6%81%af%e5%ad%90

xx-%e5%b0%91%e5%b9%b4%e3%82%af%e3%82%99%e3%82%a4%e3%83%88%e3%82%99%e3%81%a8%e4%b8%ad%e5%b9%b4%e3%82%af%e3%82%99%e3%82%a4%e3%83%88%e3%82%99

 

そしていよいよ最後の切札。「世界」=大団円の祝祭的輪舞。主人公グイドの人生における登場人物たちが時間軸を越えて一堂に会し、手に手を取りながらサーカスリング状のセットの上をぐるぐる廻る。下掲画像の人々のポーズと「世界」札の人物のそれとを比較されたし。このセットに何故か薄いベールのような布があちこち張り巡らされているのも、この札の人物が身に纏っている薄布を連想させる。

この輪舞の音頭を取るのは魔術師モーリス、すなわち第一の切札たる「手品師」である。あたかも一組のタロット=人生ないし世界を構成するカードたちがシャッフルされて渾然一体となるかのようなイメージ。グイドの最後の独白に「この混乱こそ僕なんだ」という台詞があるが、丁度それにも通じるように思われる。作品自体のタイトルを『美しき混乱(LA BELLA CONFUSIONE)』とする案もあったという。再び、映画『フェリーニ 大いなる嘘つき』からフェリーニの言を引用しておく。

私が思うに 過去と現在と未来をきちんと区切ったり 定義することはできないよ 想像上の事と実際の記憶も区別できない 職業として物語る者も 天命に従って物語る者も 時間は区切れない 物語という小さな宇宙を創ると その物語が宇宙になる 時間も含めた完全な宇宙だ 地形上の空間や登場人物だけでなく 時間も創られる

(ちなみに「世界」札と「時間」概念との関連付けも既にクール=ド=ジェブランの著述に見られる。)

xxi-輪舞

xxi-%e3%83%95%e3%82%a3%e3%83%8a%e3%83%bc%e3%83%ac%e3%81%ae%e3%82%a6%e3%82%99%e3%82%a7%e3%83%bc%e3%83%ab

 

さて。この輪舞のシーンにあたって「愚者」たちが再び登場して来る。第2回で記した如く、どこからともなく楽隊のようにして現れる4人の道化師たち、少年グイド、そして小犬。

彼らは他の登場人物たちが乗っているサーカスリングの内部を陣取って、輪舞の伴奏を務める訳だが。興味深いことにフェリーニが触れていた可能性のある、例のルドルフ・ベルヌーリによるタロット論における「愚者」の項の描写が見事にこのシーンと合致しているように見受けられるので、ここで紹介しておこう。

この愚者をタロットの幾何学図形で表わす方法がもうひとつある。すなわち、壮大な円をなしつつ1から21までの数が絡みあって円陣を象っている図形である。たえまなく次つぎに他の数に変身する運動のなかで、これらの数は進歩と発展の予兆となる。世界現象。千紫万紅の火花を発する循環!愚者は参加しない。おのれの周りをめぐるきらめく回転木馬を無関心にながめやる。彼は中心に、車輪の轂に、回転のさなかにも静止していることができる地点に微動だにせずにとどまるのである。

全く、単なる偶然の一致とは思えぬほどである。

 

そしてついに、映画は全編の幕引きへ。グイドの名台詞、「人生は祭りだ」さながらの賑やかしい輪舞から一転。一瞬にして音楽は哀調を帯び舞台は夜の帳の下りた「祭りの後」に。少年グイドの指揮のもと道化師たちが退場してただ独りになった後、笛の音と共に少年グイドも闇の中へと歩みを進めて消えてゆく。フェリーニの映像とニーノ・ロータの音楽、それぞれの魔法が一つに溶け合ったまさに奇跡とも言える映画史上屈指の名シーンである。

0-%e5%b0%91%e5%b9%b4%e3%82%af%e3%82%99%e3%82%a4%e3%83%88%e3%82%99%e3%80%81%e7%8b%ac%e3%82%8a%e3%81%ae%e5%b9%95%e5%bc%95%e3%81%8d

 

映画『81/2』はフェリーニ自身がこの頃実際に直面した精神的危機を反映した作品であることはよく知られている。スランプに陥った主人公の映画監督グイド・アンセルミはまさしくフェリーニの分身であった。

このエンディングこそ、監督フェリーニ自らの大いなる「選択」の結果でもある。以前触れたように、元々この映画のラストは「死」を暗示する静謐な列車のシーンで終わる予定であった。霊媒ロッセッラを通して「精霊たち」がグイドに「もう時間がない、急げ」と告げたのは、その伏線ともなり得たのである。グイドは選択を迫られつつも、クラウディアとの問答で自分には「選択する力がない」ことを告白している。しかし辛うじて最後には、生きて愛することを選ぶことが出来た。そこで彼が口にした台詞がかの「人生は祭りだ 共に生きよう」。この作品でアシスタントを務めた女流映画監督リナ・ウェルトミュラーの言うとおり、「フェリーニ自身が『死』ではなく『生』を選んだ」のである。

フェリーニは映画作家として「全てを受け入れる」という姿勢を強調しており、この映画で最後にグイドが妻ルイーザに語りかける言葉にもそれが反映されている(「全く正当に、君たちを受けいれ愛するよ。何と簡単なことだ!」)。積極的選択というよりも、流れに逆らわず身を任せての受動的な選択だったとも言えようが。

フェリーニは己の危機にあたってユングの心理学などにも助けられて死ではなく生を選択し、映画のラストも変更してどうにか乗り切った。このことに関し、ウェルトミュラーはこう表現している。「危機が去ったのではなく、ゲームの振り出しに戻った」のだと。

つまりは、グイドの「愚者の旅」はまだまだ終わらないのである。「手品師」から最終札の「世界」に到達した後、一人闇に消えてゆく少年グイドのように「愚者」は再び新たな旅へと出発する。改めて、フェリーニが我が身の近く自室の壁に飾った3枚のタロットのうち真ん中に置かれたのが「愚者」であったのも実に意味深いことのように思えて来る。

 

締めくくりにあたって、あともう少しだけ。

以前から漠然とした形で存在した「他の切札を渡り歩く旅人としての愚者」という概念は、1970年のイーデン・グレイの著書”A COMPLETE GUIDE TO THE TAROT”(『皆伝タロット』のタイトルで邦訳書あり)で使用された「愚者の旅( FOOL’S JOURNEY)」というフレーズを得て明確化し、まもなく一般的なものとなった。

面白いのはそれに先立つ1960年代前半製作のこの作品に同様のテーマらしきものが読み取れること。さらには「ゴールに達した愚者がまるでそこが通過点に過ぎないかのように、すぐに新たな旅へと出発する」といった感じの新しいコンセプト。実際にフェリーニがこうしたアイデアを得ていたのだとしたら、果たしてその着想の源はどこにあったのか。まず可能性として考えられるのがユング関係。特に具体的には先述の、ルドルフ・ベルヌーリによるタロット論に見られる以下のことばなど。

最後の0のカード、「愚者」、すなわち下から一番めのカードは、1、すなわち発端を反映するであろう。

もう一つ、マルセイユ版と共にフェリーニが参考にした可能性の高い例のモディアーノ社版。このデッキの「愚者」札にはかなり特殊なナンバリングが施されているのである。

モディアーノ社版愚者、終わりにして始まり

「世界」の21番を越える22番にして、同時に0番。まさしくゴールからまた振り出しに戻るかのような印象である。さらにはこの妙に分数めいた表記。映画タイトル『81/2』にもいくばくか影響したのではないか、などと想像したくなってしまう。

ついでに、このカードに描かれた犬が耳の形状や毛の色なども含めて、フィナーレに道化師たちや少年グイドと共に登場した小犬と似ていることにも注目したい。(了)

%e3%83%95%e3%82%a3%e3%83%8a%e3%83%bc%e3%83%ac%e3%81%ae%e7%8a%ac

 

(※目次へ移動→こちらへ)

1件のコメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です