ヨアヴ・ベン・ドヴ博士とエンリケ・エンリケス氏との対話(翻訳)

ヨアヴ

 

先日他界したヨアヴ・ベン・ドヴ博士追悼のため、2012年に行われた博士とユニークな活動で知られるタロティスト、エンリケ・エンリケス氏(Enrique Enriquez)との対話を翻訳してご紹介する。名作CBDマルセイユタロットの製作者でありマルセイユ版入門書の決定版との呼び声高い“TAROT – THE OPEN READING”の著者であるベン・ドヴ博士と、優れてアーティスティックなタロットへのアプローチで知られるエンリケス氏(その活動はドキュメンタリー映画にもなっている)。二人のマルセイユタロットの達人による対談は、両者の基本的なタロット観が透けて見える極めて興味深いものとなっている。

英語原文はこちらのページで参照可能。書籍としてはその他多くの著名タロティストたちとエンリケス氏との対話と共にこちらに収録されている。

(今回の翻訳と掲載を快く許可して下さったエンリケス氏に深く感謝。)

 


エンリケス氏対談本

 

エンリケ:あなたはCBDマルセイユタロットを製作なさいましたね。インタビューの始めにあたってお尋ねします。なぜ自分流のデッキを作るのでなくマルセイユ版の伝統に従ったのですか?

 

ヨアヴ:タロットを読んだり教えたりする最初の数年間はライダー版を使っていたんです。しかしその後、私は真のマスターであるアレハンドロ・ホドロフスキーからタロットを学ぶ幸運に恵まれました。彼が伝統的なマルセイユタロットからほんの数枚を引いて行うリーディングがどれだけ深く力強いものかを見たとき、タロットの力とはそのイメージの中にあるのだと私は理解したのです。タロットとは幾世紀にも渡って進化する生きた芸術作品であり、無数の者の手や目を通して変容や自然淘汰を受けるものです。そうして生まれたのが、人々に非常に神秘的な力を及ぼす一揃いのイメージでした。目にすることで、あなたの精神に人生を変えるような何かが育まれるのです。タロットは非常に柔軟なシステムであり、幾通りの異なるスタイルで描き直すことが可能ですしそれでもその魔術は機能します。だからこそ新しいバージョンが存在しうるのです。しかし、本来あるべき道を外れればその力は弱められます。マルセイユタロットを使うとしばしば経験することですが、一旦マルセイユ版に慣れてしまうと新しいバージョンは平板で生気に欠けたもののように見えるのです。それが何故なのか私には理解できます。どんなに才能に恵まれていたとしても、たった一人の人間がどうして600年に渡って生き進化を続けている伝統に、無数のマスターたちの手や目に太刀打ちができるでしょう?

 

エンリケ:全くです。実際にはイメージ自体がすなわち秘密そのものであるのに、イメージの背後に秘密を見出そうと躍起になるということがよくありますね。昨日私はある女性が、「神の家」の炎が「女教皇」の書物と同様に肌色に塗られている様に気づいて涙するのを目撃しました(見ていたのはジャン・ノブレ版です)。伝統の外にいる人にとっては、経験から来る謙虚さに立ち返らせてくれるこういったイメージの魔術を理解するのは非常に難しいことです。
さて、こうしたマルセイユ版の伝統につながる方々と話していて私はあるパターンに気づきました。彼らは皆ゆるやかにではありますが大体において語る内容が一致しています。マルセイユタロットはイメージ製作者たちの知識の宝庫だ、ということです。これは大聖堂やモスクやタンカに見出されるのと同じ知識であり、我々を高みに引き上げるいろんな形を使用する能力に基づいた知識です。しかし一致するのはそこまでで、話の細部まで一致する人は二人といません。互いに矛盾さえします。問題は我々が絶対性を希求することにあるのだと私は考えています。そういう話は「深遠なる真理」といった神話のようなもので、歴史的な事実というよりも詩的なレベルにおいてよりよく機能するもののように私には思われるのですが。あなたはどうお考えになりますか?

 

ヨアヴ:同じ意見です。ある14世紀の謎の秘教集団(であれ何であれ)がその教義をカードに盛り込んだのだと信じたところで、それでタロットの魔術の説明にはなりません。数え切れないほど多くの神秘集団が昔からありますが、現代の我々は彼らを人生の導き手にはしていません。その一つが自分たちの思想を絵の形にしたのだという理由だけで何故特別扱いする必要があるでしょう。私にとってカードの力とはその起源にあるのではなく、その進化にあるのです。何かしらの理由で人々はこの一揃いのイメージを守り育てようと強く望むのですが、何故彼らはそうしたのでしょうか。私はイメージそれ自体の持つ力が彼らに働きかけてその気にさせたのだと信じています。そうして今度は彼らがそのイメージを人間の精神に対してより強力なインパクトを持つよう改変改作したのです。こうしたことが何世紀にも渡って続きました。ですから、誰かがカードの中に古代の知識の宝庫が見られるように感じるというなら、それはそうしたインパクトの一例に過ぎないと私は考えます。それで人は古代の卓越した知識という自分たちの理想をカードの上に投影することになるのです。その思想が古代エジプトであれカバラであれ、中世あるいはルネサンスの秘密組織であれ、何であってもです。こうした投影から多くのことが学べます。知的で教養ある人々がカードに何を見出しうるのかが分かるのです。しかし私はそうしたものを歴史的真実とは受け取りません。

 

エンリケ:私は全ての「古代の叡智」が我々自身の内なる叡智よりも本質的に優るものだというロマンティックな考えにはどうにもついていけない人間ですので、その意味では貴方に賛成です。ですが一方で、私がイメージの秘密とはイメージそれ自体だと述べるとき、私が念頭に置いているのは文字通りの意味でのイメージ製作の伝統のことです。製図師や画家、彫刻家(加えて音楽家や詩人も)、彼らは皆素材や形の操作を手段として我々の魂を動かす方法を知っていました。それがイメージ製作者の技量です。タロットとは一揃いのイメージなのですから、こうした特質を明らかに受け継いでいます。要するに私にとってタロット体験とはすなわち芸術体験であり、マルセイユタロットのイメージを見てそのイメージに語らせることで成し遂げられるのは芸術体験と同じものなのです。マルセイユタロットに見られるこれら22のイメージはまさにお誂え向きです。我々が今生きているイメージ製作の時代とは、誰でも写真を撮って手を加え世界と共有することが数秒でできるような時代です。しかしその結果、こうしたイメージに意味があるのもほんの数秒のこととなります。マルセイユタロットの切札22枚は何世紀もの間生き残ってきました。誰でも新しいタロットを創ることはできます。しかし「世界」札のイメージを何ぞ自分の趣味に合うようなものに変えてしまったが最後、マンドルラ(MANDORLA = ALMOND = LA MOND = LEMONDE)を目、女陰、子宮、傷口、あるいはアニマ・ムンディとして見る可能性は失われます。イメージを改変することは即ちその意味の広がりや語りかけるものに沈黙を強いることになるのです。

 

ヨアヴ:ええ、そうですね。タロットはまず第一に芸術作品です。そのことでタロットを魔術と言ってはならなくなる訳ではありません。芸術と魔術には古くから関係があるのです。しかしまた、タロットは非常に特殊な形の芸術でもあります。それは絵画のように描き終わると額に収めて壁にかけてそれでおしまい、鑑賞は出来るが触ったり手を加えたりは出来ない、といった類のものではありません。タロットは生きている、そして進化しつづけている芸術作品なのです。タロットは人々の手の中にある。タロットは自然淘汰を受けます。突然変異的というか、何ぞの気まぐれな理由によることもあるでしょうが、例えば誰かによって月が17世紀までのような正面向きの顔でなく横顔で描かれるというような新しい特徴が発明される。その修正が当たって人々に受け入れられ広まるか、でなければ拒絶され後のデッキに現れることはなくなる。この意味でタロットの進化は生物の緩やかな適応システムに似ています。あるいはミーム(文化的遺伝子)のシステムと言ってもよいでしょう。生物システムの場合と同様、それは常に断絶の瀬戸際にあります。ある世代が一揃いのイメージを拒絶し連鎖が断ち切られることは十分にあり得るのです。私たちが知る形のタロットは姿を消し別のカードゲームに取って代わられることでしょう。だからこそ、タロットは絶えず世代ごとに己の価値を証明する必要があったのです。

 

エンリケ:タロットと言葉との関係はどう見ていますか。どのように札名がイメージに影響を与えたり、あるいは逆にイメージが札名に影響を与えたりしていると考えますか。

 

ヨアヴ:本来印刷されるカードに文字はありませんでした。しかし一旦組み込まれると、文字はその言語の一部分となったのです。各札にある文字を検討しその意味を見出すことは可能ですが、イメージ同様確定された解釈というものはありません。全体的に札名を考察すると、18世紀の標準と比較してコンヴェル版のは見るからに古風で一貫性がなく変則的な部分が多々あることが分かります。(18世紀には既に標準的な正書法が存在しており、例えばUとVは明確に区別されていました。)
件の変則的な部分をいくつか挙げてみましょう。

・UとVの使い方に一貫性がない。
・時にあるべきでないところにアポストロフィが打たれ(例・L’A ROVE DE FORTVNE)、時にその逆である(例・LETOILLE)。
・語の分け方やくっつけ方に規則性がない。単語間の点やピリオド、それに小さな垂直線の集まりの使い方が明確でない。
・(棒の)宮廷札のうち3枚ではBATONというスペルだが、1枚(女王札)ではBASTON。
・3つのスーツでは数札に番号が打たれているが、金貨の札にはそれがない。
・15枚の宮廷札は札名が下の方に書かれているが、1枚(金貨の従者)は横にある。
・そして言うまでもなく、無番号だが空白の番号欄はある愚者札と、名無しで札名欄もない13番札。

こうした変則性にどういう機能があるのか。一つはカードに(印刷された1760年という時代に比して)古風な感じを与えることかもしれませんが、もっと深い理由があるのかもしれません。それは秩序とカオスとの間のバランスで、多くの札の細部に見られるシンメトリー破りのような別の特徴でも表されています。私の考えではこれは非常に重要なことです。熟達した芸術家なら誰でも規則性と不規則性との釣り合いを取るべきことを知っています。複雑性理論の現代的な用語でいう「カオスの縁」こそ生きて進化しているシステムの恒常的なあり方です。ですから、こういった不規則性はカードを生きたものにするひとつの重要な特徴なのです。

(以下、後半分)

エンリケ:あなたは現代的なものにすることを狙いつつマルセイユタロットをトレースし直したと言っていましたね。それはどういう意味ですか?

 

ヨアヴ:タロットは進化し続けているシステムですから、CBDタロットを校訂するにあたって最古のオリジナルを探すということはしませんでした。それは「本物のアインシュタイン」とは生まれたばかりの赤ん坊の彼だ、と言うようなものです。そうする代わりに私はタロットの魔術を、史上最も影響力のあるデッキとなり人々の精神にその力や作用を示してきた最強のデッキから捉えようと試みました。それは疑いなくコンヴェル版(1760年)です。それで私は出来る限り忠実にそれを復元することにしました。タロットの視覚的インパクトの主な要素が描線の質です。今日、オリジナルのコンヴェル版に使われた木版技術を再現することは現実的でありません。しかしそれでも私は、コンピューターではなく人の手による線を求めました。ですから私はイラストレーターを雇い、目で見た線を紙の上にインクでなぞってもらいました。そうしてそれをスキャンし汚れ等を取り除いてもらった上で、コンヴェル版オリジナルの高画質なスキャンを援用して私が手仕事で線を整えていったのです。線一本の解像度までオリジナルの細部を保持することが私には重要でした。とは言え、私は博物館的な復元品を作ることに興味はありませんでした。それよりも今の人たちが使うのに適したデッキを作りたかったのです。1760年のオリジナルに使われた技術や彩色道具・紙質を正確に再現することは不可能です。人工的な手段でそれらを真似ることができたとしても、見る者への視覚的な印象は全くの別物となるでしょう。現代の私たちの目は全く違ったイメージやグラフィック素材の世界に慣れてしまっているからです。こうした食い違いのために私はいろんな場面で多少の改良をしなければなりませんでした。たとえば、現代の印刷方法では目立ちすぎるであろう「異常な」細部を目立たないようにする、などです。特に顔の表情には大きな改変をしました。オリジナルのままだと現代人の目にはあまりにも陰気で憂鬱そうに映るだろう、という理由からです。それでも、全体的な顔の特徴はしっかり残るようにしましたが。加えて、オリジナルの顔料の色合いやその製作当時の印象を再現する術はありませんから、さまざまな色に関して色合いのスケールを再構築する必要がありました。これはつまり、コンヴェル版の札面における赤はCBD版でもやはり赤ですが、どういった色合いの赤にするのか決定せねばならなかったということです。

 

エンリケ:色といえば、感情に対してイメージが持つインパクトというのはどこに備わっているとあなたはお考えですか?色でしょうか、形でしょうか。

 

ヨアヴ:私は多くの要因が揃ってタロットの魔術的なインパクトを生み出しているのだと考えます。色や形はその一部ですがデッキの構成、あるいはシンボル群とはまた違いますね。長い歴史を持つ伝統の表れであるそれらとは違って、ここに見るのはデッキ製作者個人の芸術です。CBDデッキに取り組んでいたときに私を本当に興奮させたのはこれなのです。このニコラ・コンヴェルという人物が何をしていたのか、どのように彼が各札に異なる動きや調和の構成を与えるべく彩色したカードを組み立てていたのかが突如として分かりました。これらの構造はオリジナルのコンヴェル版の中にはありましたが、歳月に伴う退色や傷みにより、またオリジナルの印刷具の質が不完全だったこともあってはっきり見えなくなっていたのです。それが本当にはっきりと見えていたのは、木版を起こす前に製作していたに違いないコンヴェルの原画くらいだったろうと思います。ですから、精確に形を写し取り新たに鮮やかな色を充てることで、件の構造が250年の時を経て私のコンピューターのスクリーン上に再び立ち現れるのを見て私は本当に興奮したのです。何より、私はそれを前もって探していた訳ではなかったのです。私はカードのこの側面について考えてもいませんでしたし、他にそのことについて言及している人も皆無でしたから。具体例としては、

・いかに「運命の輪」が反時計回りに動いている感じが出るよう形に色をつけて配置してあるか。
・弓に矢をつがえたような構成で引き出される、「節制」札のダイナミックかつ張り詰めた感じ。
・画面のいろんな形や色によって、見る者の目がいかに「隠者」札や「金貨の女王」札のフォーカスポイントへと引き付けられるか。
・人物たちの視線が構成と一体化していること。
・そして、いくつか風変わりな点があること。「棒の従者」の札面における、手が身体から離れて棒と一体になったかのようなピカソ的スタイルの遊び。

以上が、何よりもまずコンヴェルが芸術的天才であったと私が考える理由です。

 

エンリケ:「鳥たちの言葉」や「陽気な知識」をどう思いますか。これらの概念とマルセイユタロットの間に何か関係はあるでしょうか?

 

ヨアヴ:あなたが言っているのは、100年ほど昔のフルカネリの考えのことですね(※訳註)。最近ジャン=クロード・フロルノワがその焼き直しをやっていますが、大聖堂の建設者、テンプル騎士団員、同職組合の職人、トルバドゥール、秘儀継承者の言語、そしてマルセイユタロットには歴史的なつながりがある、というものです。歴史学的なテーゼとしては、これらのつながりにはどれも確たる証拠がありません。また、この説に基づく形で示されたカードの「真の意味」の実例群もさほど啓発的なものとは私には見えません。それでも、フロルノワの書いていることで私が興味深いと思うポイントが二つあります。まず、タロットのイメージは論理的に理性で考えるのではなく直観によって理解するよう努めるべきだ、という考え方です。私はそれに賛成です。中国の老荘思想の、例えば荘子と濠水の楽しそうな魚のお話を思い出します。自分が魚でないのに、どうして魚が喜んでいると分かるのか?さあて、どうして分かるのかは分からないが、魚を見れば魚が喜んでいると分かるのだ。それと同じように、リーディング中にカードを見ればそのカードの意味が「分かる」のです。それは書物に従っての理性的なプロセスではありません。
二つめは、語呂合わせや言葉遊びでのように言葉を分解するというアイデアです。私の考えでは同じことがマルセイユタロットの画面上のイメージにも当てはまります。イメージを分解し新たな形や物へと組み立て直して遊べるのです。題字に対してもそれができます。ホドロフスキーは「審判」札の”Le Jugement”を”le juge ment”、「裁き手はウソをつく」と読んでいます。また、”Letoille”は星とも読めますが織物とも読めますね(どちらにせよ少し綴りが違いますが)。それは彼女が裸であることを皮肉ったものとも理解できます。この種の言葉遊びはカバラの文書やラカンの精神分析でも行われるものです。今はもうカバラとタロットというのは目新しいつながりではありませんが、ラカン的な視点でタロットを理解するのは面白いと思います。

 

ニューヨーク/イスラエル、2012年

 

※訳註「最後に、隠語が、すべての言語の産みの母かつ最長老で、哲学者と外交官の言語である、『小鳥たちの言葉』から派生したものであることに触れておこう。これはイエスが自らの霊魂、つまり精霊を送って、弟子たちにそれについての知識を明かした言語である。森羅万象の秘密を教え、蘊奥の真理を暴くのはこの言語である。(中略)この言語はまた、中世においては、『陽気な学問』とか、『陽気な知識』とか、『神々の言語』とか、『徳利明神』とよばれた。」フルカネリ著『大聖堂の秘密』(平岡忠訳/国書刊行会)より引用。

 

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