クール=ド=ジェブラン『タロットについて』抄訳(随時更新)


タロットについて
その起源を論じ、その寓意を解説し、現代の遊戯カルタの源であることを明らかにする、等々。

(以下、冒頭部より)
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エジプトの書物の発見が引き起こすであろう驚き


 もし、古代エジプト人のある興味深い主題に関する最も純粋な教義を含む一冊の書物が、彼らの壮麗な図書館を焼き尽くした炎を免れて今もなお現存しているという知らせを耳にすれば、間違いなく誰もがかくも貴重で珍しい書物をすぐにでも知りたく思うことであろう。もし、現在その書物は欧州の大部分に普く広まっており、幾世紀もの間世界中の人々の手の中にあったのだということを重ねて聞けば、その驚きは増すに違いあるまい。もし、その書物がエジプト起源のものとはかつて疑われたこともなく、手元にあっても蔑ろにされ、誰一人としてその一頁を読み解こうと試みた者もなく、その美味なる叡智の果実がそれ自体何の意味も無い風変わりな絵の寄せ集めと見なされて来たのだと断言されれば、驚きは頂点に達するのではあるまいか。面白がって聴く者たちの軽信を弄んでいるのでは、と思うのではなかろうか。

このエジプトの書物は実在する

 しかしこの事実は紛れも無い真実なのである。かの壮麗な図書館の唯一の残存物であるこのエジプトの書は現存している。あまりにありふれた物であるため学者達は誰も取り組む気にならないのである。筆者以前には誰もその輝かしい起源を嗅ぎ付けた者はいない。この書は七十七枚ないし七十八枚の紙片もしくは板から成り、五つの部類に分かれ、多彩且つ楽しく為になる主題を提供している。要するに、この書物とはタロットのことである。確かにパリでは知られていないがイタリアやドイツさらにはプロヴァンスでも非常に良く知られている遊戯で、札数の多さもさりながら各札に描かれた絵に関しても一風変わったものである。
 使用されている地域は広大なものではあるが、だからと言ってその風変わりな絵が持つらしい価値が分かるということにはならないのである。あまりに古い起源のものであるが故にその価値は時間の闇の中に消えていたのであり、発明された時代と場所やかくも多くの奇妙な絵を集めた理由を知る者は誰もいなかった。それらの絵は相伴うように作られた風には到底思えず、凡そ誰も解明しようとしてこなかった謎を提示するばかりであった。…(以下略

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(以下、大アルカナ各札に関する描写を抜粋)

0. 道化 

道化棒や貝殻と鈴のつけられた衣服(オクトン、※1)から、この札に描かれているのは紛れもなく道化(fou、※2)であると分かる。
小さな荷物を背負い、臀部に噛み付く虎(※3)からそうすることで逃れられるだろうとまさしく馬鹿のように足早に進んでゆく。
袋について述べると、それは彼が目にしたくない己の過ちの象徴である。虎は後悔の象徴であり、勢いこんで付きまとい背後から臀部に飛びかかる。

(※1 “hoqueton”はかつてヨーロッパで兵士が鎧の下に着た防護服の名称。「アクトン」とも。)
(※2 “fou”には「道化」、「狂人、愚者」など複数の意味がある。この後の「馬鹿のように」の原語も”comme un fou”である。)
(※3 ここでは原語”tigre”の一般的な訳である「虎」としたが、古くは「縞・斑点のある猛獣」の総称としての用法もあったようである。)

1. カップと玉の演者、もしくは手品師  

数の小さい方から順に数えると全ての切札の最初、また逆に大きい方から数えると最後になるのは、「カップと玉」の演者である。
さいころ・カップ・ナイフ・玉などで覆われたテーブル、ヤコブの棒あるいはマギの杖、彼が二本の指で持ちこれから消そうとしている玉でそれとわかる。

カルタ製造者の付けた名称に従って手品師(Bateleur)と呼ばれる。これはこのような職業の人々の俗称である。この語が棒を意味するbasteから来ているということは述べる必要もなかろう。
全ての「状況」(※1)の先頭に有ってこの札が示すのは、人生全ては夢に過ぎずただ手品の如く消え失せるもの、ということ。
死ぬまで続く運任せのゲーム、我々が決して支配出来ない数多の事態による衝撃のゲームであり、当然ながら大体においてあらゆる統括的管理に左右されるものだということである。

しかし、道化と手品師の間に在って、人は丁度良いのではないか?

(※1 別の箇所にタロットには「ある意味全宇宙、そして人生に起こりうる種々の状況が封じ込められている」とある。)

2、3、4、5. 社会の長たち  

第2番と第3番は二人の女性を表し、第4番と第5番はその夫たちを表す。
社会における世俗的・宗教的な長たちである。

王と王妃  

  

第4番は王を、第3番は王妃を表す。両者とも標章として盾形に入った鷲紋と、
タウ付きの、すなわち際立った象徴であるタウと呼ばれる十字の付いた球が上に載った笏を持っている。

王は横向きの姿で、王妃は正面を見せた姿である。二人とも玉座に座っている。
王妃は裾を引くような長衣をまとい、その玉座の背もたれは高い。
王はゴンドラもしくは貝型の椅子に座っているようであり、両脚は十字に組まれている。
その王冠は半円形で十字付きの真珠が載っている。
王妃の王冠は先端が尖っている。王は勲章を身に付けている。 

大神官と女大神官  

  

第5番は祭司たちの長あるいは大神官を表し、第2番は女大神官もしくは彼の妻を表す。
エジプト人たちにおいては聖職者の長は既婚者であったことが知られている。
もしこれらの札が近代の発明品であったなら、女大神官など見られなかっただろうし、
女教皇なる名称に至ってはなおさらで、これはドイツのカルタ製造者たちがつけた馬鹿げた名称である。

女大神官は肘掛椅子に坐っている。長い衣服を着ており、頭の後ろのベールのようなものが鳩尾の上で合わさっている。
イシスが付けているような二本の角のある二重冠を付けている。膝の上には開かれた一冊の本を載せている。
十字のついた二本の襟巻が胸の上で交差しX形を形成している。

大神官は長衣と留具の付いた大きな外套を身に纏っている。三重冠を戴く。片手に持った三重十字付きの杖で身を支えており、
もう片方の手では伸ばした二本の指で跪いている様子の二人の人物に祝福を与えている。

タロットを自分らの知見に帰結させたイタリアもしくはドイツのカルタ製造者はこれら二人の人物を「教皇」「女教皇」としたが、
古代の人々は「父(PERE)」「母(MERE)」と名付けていた。ABBÉとABBESSEは丁度同じ意味を持つオリエントの言葉である(※1)。

三重十字付きの杖に関して言えば、これは完全にエジプトの遺物である。
いつか一般に提供するため既に我々が完全翻刻させた貴重な遺物である「イシス板」では、TTという文字の下に見られる。
それは名高いパミリアの祭り(※2)において担ぎ回られた三重のファロス(男根)と関係がある。
オシリスとの再会を喜ぶ祭りであり、そこでのファロスは植物や自然全体の再生の象徴であった。

(※1 ”abbé”は「父」を意味するアラム語”abba”に由来しフランス語では男性聖職者への呼び掛けなどに使われる。”abbesse”はその女性形。)
(※2 プルタルコスの著作に記述がある。)

7. 凱旋するオシリス  

引き続いてオシリスが進み出る。彼は凱旋する王の姿で現れる。手には王杖、頭上に王冠。
二頭の白馬が曳く戦車に乗っている。オシリスがエジプト人達の大いなる神であること、全シバ人たちのそれと同一神であり、
また太陽、即ち至高にして不可視であるが自然の生んだこの傑作において顕現する神の物質的象徴、であることを知らぬ者はない。
冬に彼は敗北し、春には彼に戦いを挑んだもの全てに勝利を収めて新たな輝きと共に再び出現した。

6. 結婚 

一人の若い男性と一人の若い女性が互いに誓いを交わしている。神官が彼等を祝福し、愛の神がその矢で彼らを射抜く。
カード製造者たちはこの札を「恋する男」(l’Amoureux)と呼んでいる。
恐らくはこの札を自分たちの目にもっと分かりやすいものにするために彼ら自身でこの愛の神をその弓矢と共に描き加えたようである。

ボワサール(※1)の古典美術の中に夫婦和合を描いた同種の遺物が見られるが、それはただ三人の人物だけで構成されている。
誓いを交わす愛し合う男女。二人の間で愛の神が立会人と神官を務める。

この絵はFIDEI SIMULACRUM(『貞節の像』)と題された夫婦の誓いの絵である。
その人物たちは誠実、名誉、愛という麗しい名で呼ばれている。
言うまでもなくここで誠実は男性よりむしろ女性を指し示している。
この語が女性名詞だからという理由だけでなく、揺るぎなき貞節というのは女性の方が欠いてはならないものだからである。
この貴重なる遺物はT・フンダニウス・エロメヌス(愛すべき者の意)なる人物によって最愛の妻ポッペー・デメトリエと彼らの愛娘マニリア・エロメニスのために建てられた。

(※1 ジャン=ジャック・ボワサール [1528 -1602] 。著名なフランスの古物収集家。)

8、11、12、13. 四元徳 

 

 

この図版にまとめたのは四元徳に関わる図である。

11番。これは力を表す。ライオンの女主人となって小さなスパニエル犬であるかのようにその口を開かせる女性である。彼女は麦藁帽子(※1)を頭に載せている。

13番(※2)節制。片方の器から水を酒(リキュール)の入っているもう片方へ薄めるために移す有翼の女性である。

8番。正義。女王であり、玉座に着くアストライアーである。片手には短剣を、もう片方には天秤を持っている。

12番。深慮は四元徳の一つである。エジプト人たちがそれをこの人生絵巻に入れ忘れた、などということがありえようか?
しかしながらこのカルタの中にそれは見当たらない。その代わりに、力と節制の間の12番に両足で吊るされた一人の男が見える。
しかし一体この吊るされ人は何をしているのだろうか?これはある思い上がった三流カルタ製造者の仕業であり、
この札に秘められた寓意の見事さを分かってもいないくせに手直しを引き受け、まさにそれがためにこの札をすっかり歪曲してしまったのである。

深慮が一目瞭然に表現されうるのは、片足を地に付けて立ちもう片方を前に出しながら安全に置ける所を検討しつつ宙に浮かせている男によってのみである。
それゆえこの札の表題は足を浮かせた男、pede suspensoであった。
カルタ製造者はそれが何を表そうとしているのか分からなかったために両足で吊るされた男を生み出したのである。

そして、何でこのカルタに吊るされ人がいるのだ?と問う者がいた。これは女教皇を描いたことに対するこのカルタの考案者への正当な罰なのだ,と言う者もやはりいた。

しかし、力と節制と正義との間に置かれているのだから、最初の意図として描かれたのは深慮であったはずだと分からぬ者が誰かいるだろうか?

(※1 原文の”un chapeau de Bergere”は18世紀に流行った婦人用麦藁帽子のこと。 “bergère”は「女羊飼い」の意。)
(※2 何故か「節制」が本文でも図版でも13番になっている。後で通称「死神」も通常どおり13番とされているので、単純なミスであろう。)

9. 賢者もしくは真理と正しさの探究者 

第9番には肩のところに頭巾のある丈の長い外套を着た老哲人が描いてある。曲がった腰で杖をついて歩き、左手にはランプを持っている。これは正義と徳を探究する賢者である。

従って、このエジプト的絵画で連想されたのは真昼間にランプを手に人間探しをするディオゲネスの話である。
その数々の金言特に警句はどの時代にもあてはまるものであり、ディオゲネスこそここに描かれる姿の体現者であった。

カルタ製造者たちはこの賢者を隠者にした。これはまあ上出来である。哲人たちは自ら進んで隠棲するものであり、即ち時代の軽佻浮薄にはあまり適していないのである。
ヘラクレイデスは親しい同郷人たちの目には頭がおかしな人間として映っていた。
そもそも東方では 思弁的学問に専心することや周囲から身を隔絶することというのはほぼ同じことなのだ。。
その意味においてエジプトの隠者たちがインドの隠者たちやシャム(※1)の仏教僧たちを批判すべき点など何も無い。彼の人々は皆悉く、かつても今もドルイドなのである。

(※1 現在のタイ王国。)

19. 太陽 

この図版(※ 1)には全て光に関わる絵をまとめた。そういう訳で隠者のほのかなランプの灯りに続いては、
このカルタにおいて様々な象徴と共に姿を見せている太陽、月、そして輝かしきシリウスもしくは煌めく犬星の検討に入ろう。

太陽はここで物質界における人類と全自然の父のように描かれている。
社会を成す人間たちを照らし、彼らの都市を司る。
その光芒からは黄金と真珠の涙がしたたり落ちている。
かくの如くこの天体の持つ好ましい作用(※2)が明示されている。

ここにおいてタロットというカルタは完璧にエジプト人たちの教義に合致している。それは次項でさらに詳細に検証するとおりである。

(※1 「隠者」「太陽」「月」「星」の4枚が含まれる。)
(※2 「作用」は原文でInfluence。この語は占星術において天体が人間などに対して持つ影響力という意味も持つ。)

18. 月 

そういう訳で、太陽の後を進む月もまた黄金と真珠の涙に伴われている。月もやはり地上の利益のため貢献しているのだということを同様に示すためである。

パウサニアスがポーキスについての記述(※1)の中で教えてくれているのは、エジプト人たちによれば毎年ナイル川を増水させてエジプトの平野を肥沃なものとしたのはイシスの涙であったということだ。
その他にもこの国に関する複数の記述に、ナイル川が増水するべき時期に月から落ちる滴ないし涙について書かれている。

この札の下部にザリガニすなわちかに座(※2)が見えるのはあるいは月の退行を表すためか、
あるいは次の札に見える犬星(※3)が昇る時間に例の涙による氾濫が起こるのは太陽と月がかに座を離れるときであるということを告げるためかである。

二つのモチーフを一つにまとめることも出来よう。決定というものは往々にして見極めることの困難な、塊をなす数多の影響の下になされるのが普通ではないだろうか?

札の中央は二つの塔に占められている。両端に一つずつ、名高い二本のヘラクレスの柱を示すためである。
二つの大いなる光源(※4)がそれらを越えて通過することは決してない。

二本の柱の間には月に吠えかかって番をしているらしき二頭の犬がいる。完全にエジプト人的な着想である。
寓意というものに卓越していたこの民族は、南北の回帰線をそれぞれが一頭の犬に番をされる二つの館になぞらえた。
犬は忠実な門番のように二つの天体が南北の極へ逃げ込むことを許さず天の中央に引き止めておくのである。

これらは決して今の注釈者の空想ではない。クレメンスはアレクサンドリアの人で彼自身エジプト人であったのでそのことについて何か知っていたに違いないが、
エジプト人が南北の回帰線を門番ないし忠実な守衛さながらに太陽や月が侵入し過ぎたり南北の極まで行ってしまったりするのを二頭の犬が妨げる図で表現したことを『雑録』中で言明している(※5)。

(※1 2世紀ギリシャの旅行家パウサニアス著『ギリシア案内記』第10巻。ポーキスは古代ギリシャの地名。)
(※2 古い星図ではかに座はザリガニとして描かれている。)
(※3 次に扱われる「星」札のシリウスのこと。)
(※4 太陽と月のことであろう。)
(※5 ギリシア教父クレメンスの主著『雑録〈ストロマテイス〉』第5巻第7章。)

17. 犬星(※1)

ここで、同じく寓意的であり全くエジプト的な絵が我々の目の前にある。それは「星」と題されている。
実際輝く星が一つ見え、その周りにより小さな星が七つある。
札の下部を占めているのは身を屈めて片膝をつき二つの瓶を逆さまにしている一人の女性で、それらの瓶から二筋の川が流れ出ている。
この女性の横には花に止まった蝶がいる。

これぞ全く純粋にエジプト的なものである。

この星はまさに犬星すなわちシリウス、太陽がかに座を離れる時に昇る星である。
前の絵(※2)はかに座で終わったが、ここですぐにこの星が後に続く。

その周りを取り巻き、この星の廷臣の如く見える七つの星は惑星である。
この星はいわば惑星たちの女王であり、故にこの時に一年の始まりを定める。
惑星たちはこの星に合わせて己の動きを決定するためにその命令を受けにやって来るようである。

この時、下の方で瓶から水を放出することに大いに心を砕いている女性は天の女王イシスである。犬星が昇るときに始まるナイルの氾濫は彼女の恵みであるとされていた。
従ってこの星が昇るのは氾濫の予告であった。犬星がイシスに捧げられ、何より彼女のシンボルであったのはそのためである。

また、一年がその上昇で始まることからこの星はソティス(SOTH-IS)、年の始まりと呼ばれた。イシスに捧げられたのはこの名においてである。

最後に、花とそれが支える蝶は再生と復活の象徴であった。
同時にそれらは犬星が昇ると丸裸になったエジプトの地がイシスの恵みにより新たな収穫物で一杯になるであろうことを示している。

(※1 原文ではLA CANICULE。シリウスの別名で原義は「小さな犬」。)
(※2 前項の「月」の札のこと。)

13. 死
 

第13番は死を表す。それは人々、国王たちや妃たち、貴人たちや庶民たちを刈る。その殺戮の鎌に抗うものは皆無である。

死がこの番号に置かれているのは何の不思議でもない。13という数はいつでも不吉なものと見なされてきた。
きっと何らかの大いに不幸な出来事がはるか昔この日付の日に起こり、その記憶があらゆる古代の国々に影響を及ぼしたのであろう。
ヘブライの13部族が12としか数えられなかった(※1)のはこの記憶の結果によるものなのであろうか?

付け加えておこう。ただ快いことだけを連想させておけばよいはずのこのカルタにエジプト人が死を組み込んだこともまた不思議ではないのだ。
このカルタは戦争ゲームであり、それゆえ死はそこに収まって然るべきだったのだ。
チェスゲームがチェックメイト(※2)、より正確に言うとSha mat、「王の死」で終わるように。

そもそも、『暦』(※3)において思い出して頂く機会があったが、この賢明で思慮深い民族は宴席でマネロス(※4)の名の下に骸骨を登場させた。
恐らくは客たちに美食大食で身を滅ぼさぬよう戒めるためである。
誰しも自分なりの見方というものがあり、決して趣味嗜好についてあれこれ云々すべきではない。

(※1 元々の12部族のうちヨセフ族が2つに分かれたため本来は合計13となるが、祭祀職のレビ族を数に入れず12とする伝統がある。)
(※2 仏語原文のechéc matはチェス用語で英語のチェックメイトに当たるが、語源がペルシャ語のshah mat、「王の死」だという説がある。)
(※3 暦の歴史を主題とした『原始世界』第4巻を指すものと思われる。こちらではヘロドトスやプルタルコスなど出典も明記。)
(※4 初代エジプト王の夭折した息子と伝えられ、エジプトの民は麦を刈るとき彼の死を悼む挽歌を歌ったという。
   ヘロドトス『歴史』巻二の七十九、プルタルコス『エジプト神イシスとオシリスの伝説について』第十七参照。
   マネロスと「宴席の骸骨」の結びつきに関してはプルタルコスが出典のようである。)
   上記『原始世界』第4巻ではペトロニウス『サテュリコン』の「トリマルキオの饗宴」にもこの骸骨が登場する旨紹介がある。)

15. テュポーン

第15番は有名なエジプト神話のテュポーン(※1)であり、オシリスやイシスの兄弟にして悪の本源、地獄の大魔王である。
蝙蝠の翼とハルピュイアの手足を持ち頭には醜悪な鹿の角があり、この上なく醜く悪魔的な姿となっている。
その足元には長い耳と大きな尻尾を持ち両手を背後で縛られた二匹の小悪魔がいる。
彼ら自身、首から紐でテュポーンの台座に繋がれている。
これは彼が己に属するものを手放すことはないということである。彼は己の所有物を大いに愛する。

(※1 セト神のこと。ギリシア名で呼んでいるのはプルタルコスに準じたものか。
   ちなみに併録されたド=メレー伯のエッセイでもテュポーンの名が使われている。)

16. 神の家、もしくはプルトスの城

今度は、強欲さに対する教訓をここで得る。
この絵には「神の家」と呼ばれる一つの塔が描かれている。即ち至上の家である。
これは黄金で満たされた塔であり、プルトス(※1)の城である。
それが崩壊し、その崇拝者達は瓦礫の下敷きとなって押しつぶされる。

この絵全体から、ヘロドトスがランプシニトスと呼び話題としたあのエジプト王の物語がよく分かる。
彼は自分の宝物を収めるために大きな石塔を建てさせ自分だけがその鍵を持っていたのだが、
誰もその建物にある唯一の出入口を通っていないのに目に見えて宝物が減っていることに気づいた。
かくも巧妙な盗賊を見つけ出すために、この王は宝物を収めた壺の周りに罠を仕掛けることにした。
盗賊たちはランプシニトスが雇っていた建築家の二人の息子たちであった。
彼は誰にも気づかれることなく石材の一つを好きな時に外したり戻したり出来るよう設置していたのだ。
彼はその秘密を自分の子供たちに教え、お分かりのように彼らは見事にそれを利用した。
彼らは王の物を盗み、そうして塔から下へと飛び降りた。その姿で彼らがここに描かれているのだ。
実のところこれが『歴史』のうち最も素晴らしい部分である。ヘロドトスにはこのよく出来た話の残りが見出せる。
いかなる次第で兄弟のうち一方が網に捕えられたのか。いかなる次第で彼が片割れに自分の頭を切り落とさせたのか。
いかなる次第で母親が彼に兄弟の遺体を絶対に取り戻すよう求めたのか、
いかなる次第で彼が死体と王宮の番人たちを酔わせるためロバに革袋を積んで行ったのか。
いかなる次第で彼の空涙にもかかわらず番人たちがその革袋の酒を飲み干して眠り込んだ後、彼が全員の右側の髭だけを切り落とし兄弟の遺体を持ち去ったのか。
いかなる次第で仰天した王が自分の娘に対し情夫たちに自分がした中で最も痛快な悪戯を話してもらうよう言ったのか(※2)。
いかなる次第でこの才気煥発な若者がその美しい姫に近づき自分の所業を全て話したのか。
いかなる次第でその美しい姫が彼を捕まえようとしたが掴んでいたのはただの偽の腕だったと分かったのか。
いかなる次第でこの大きな椿事に蹴りをつけ大団円へと導くために王が自分をものの見事に振り回したその利発な若者に対し
娘に最もふさわしい者として彼女を与えることを約束し、皆の大きな満足のうちに実行されたのか。

ヘロドトスがこの物語を実話だと思っていたのかどうかは分からないが、
あのようなロマンスやらミレトス話やら(※3)を創作出来た民族がつまらない冗談を一つ創作したということも大いにありえよう。

この作家は我々が『暦の歴史』で語ったことを証明するまた別のことを伝えている。様々な祝祭で引き回される巨人の像が大抵いつも季節を示しているということである。
彼の話によると我々が語ったばかりのランプシニトス王その人がウルカヌス(※4)神殿の北と南に高さ25キュビトの「夏」と「冬」と呼ばれる二つの像を立てさせた。
さらに人々は前者を礼拝し、逆に後者に捧げ物をしたという。つまりは善の本源を認識し愛しもしたが捧げ物は悪の本源にのみした未開人たちと同様である。

(※1 ギリシア神話における富と収穫の神。)
(※2 王は犯人を見つけ出すために王女を娼館に送り客を取らせていた。)
(※3 前者は古代ギリシャの真面目な恋愛小説のこと、後者はミレトスのアリスティデスによる下世話な恋愛・冒険小話集のこと。)
(※4 プタハ神のこと。)

10. 運命の輪

この図版(※1)の最後は運命の輪である。ここにいる猿や犬やウサギ等々の姿をした人間味のある登場者たちは彼らが繋ぎ止められたこの輪で代わる代わる上昇する。
これはあたかも運命とそれによって急速に持ち上げられたり同じ速さで落とされたりする者たちに対する皮肉のようである。

(※1 『原始世界』所収の図版は先の「死」「悪魔」「神の家」「運命の輪」が一纏めで同じ頁に収まっている。)

20. 「最後の審判」と誤称される絵

この絵は喇叭を鳴らす天使を描いている。すぐに大地から裸の老人と女性と子供とが現れ出る様が見える。
これらの絵の、さらにはその総体の意義をも掴み損ねたカルタ製造者たちはここに最後の審判を見、それをより明確にするためそこに墓の如きものを描いたのだ。
これらの墓を取り去り給え。この絵はまた、かつて二十一番が表わす「時間」の始まりに行なわれた天地創造を示す役目をも担うのだから。

21. 時間。「世界」は誤称。

カルタ製造者たちはこの絵が万物の起源であると考えて「世界」と呼んだが、これは時間を表わしているのである。その総体からすれば間違えようがない。

中央にいるのは時の女神で、帯もしくは古代人が呼ぶところのペプロス(※1)の役目をしている薄布をはためかせている。
時間の循環並びにかつて万物がそこから生じた卵を表わす輪の中で彼女は時の如く駆ける構えを取っている。

絵の四隅には一年の循環を生む四季の象徴があり、ケルビムの四つの頭を構成する。
その象徴というのが鷲、獅子、牛、そして若者である。
鷲は鳥たちが再び姿を見せる春を表わす。
獅子は夏、もしくは太陽の灼熱。
牛は人々が耕し種を蒔く秋。
若者は人々が集い合う冬。

(※1 古代ギリシャの女性用長衣。)